その1↓の続きです。
GPSログ(ルート)はこちら↓
(↑春日山神社下駐車場スタート/ゴールです。惣構えから神社下駐車場までは1.5~6kmです)
天守閣跡
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井戸跡
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大きい井戸です。しかも、今だに水がなみなみ張っています。
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油流
急斜面で敵が登ろうにも滑ってしまうことから、油を流したような坂=油流し、と言われるようになったそうな。
わたしゃてっきり、敵が襲来したら本当に油を流すのかと思った(雑)
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鐘楼(画像上部、階段のところ)へ向かいます。
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薬研堀のような坂を下って登って…
鐘楼跡に到着
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鐘楼跡から望む上杉景勝屋敷跡
御館の乱で景虎を破って謙信の跡を継いだ景勝。弘治(1555)元年11月、上田長尾家・長尾政景と妻・綾(仙洞院。謙信の異母姉)の次男として南魚沼に生まれます。長兄の夭逝を受け継嗣をなっていましたが、永禄7(1564)年、父・政景の急死(溺死とも暗殺とも)を受け、叔父・謙信の養子となるため春日山城へ入ります。天正3(1575)年、それまでの長尾顕景から上杉景勝へ改名。天正6(1578)年3月、謙信が急死すると後北条氏から人質として越後に入っていた景虎との間で家督争い「御館の乱」が勃発します。翌年には景虎へ嫁いでいた姉(妹とも)・華(清円院)が降伏勧告を突っぱね自害。華の行動に対し、いくら景虎との間に子供(道満丸)がいたからって自殺することないのに、と思う私は庶民だからでしょうねー。さて、御館の乱はその後、上杉憲政(謙信の養父)、道満丸の謀殺(道満丸、まだこの時8才。泣)、景虎の自害(この時26才。華姫は享年24才。戦国時代つらい)を持って翌、天正8(1580)年に終結。
景勝はその後、秀吉のもとで五大老の一人となりますが、関ヶ原でうっかり挑発に乗り以下略。
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長くなりました…。景勝屋敷跡、その先に柿崎屋敷跡があります。が今回は時間の都合で省略。
再度、本丸跡に戻り、東の尾根沿いに坂を下って諏訪堂跡方面へ。
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護摩堂跡
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諏訪堂跡。その北側に…毘沙門堂跡
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二之丸の一本銀杏を眺めつつ…
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毘沙門堂。ありがたい説明はこちら。
内部には小ぶりな毘沙門天のブロンズ像がお祀りされていました。以前は高村光太郎が修復を手掛けた毘沙門天像がお祀りされていたそうです。
それにしても、信長といい、光秀といい、戦国の武将たちは悪魔が好きだな…(光秀はフロイスに勝手に言われただけですが)
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すぐ隣に不識院
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御花畑跡
供花でも栽培してたんでしょうかね…?
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直江屋敷跡
「なんやあらぬ疑い掛けられてますけど、こちら北国は雪が降ったら上洛は無理ですしおすし」とお便りして家康を激おこさせた兼続
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追記:気になって調べなおしたら、兼続ではなく先代・信綱、もしくは先々代・景綱の屋敷跡ですな。ちなみに兼続は、信綱の急死によって残された後家・船(せん)のもとへ婿入し、与板城主、直江姓を名乗ることになりました。
帯廓
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虎口跡
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搦手跡
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…の手前は空堀が掘られています。
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謙信屋敷跡?(上杉少弼入道宅跡)
数あるうちの一つかも?
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千貫門の内側に続く空堀
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塹壕跡
堀と塹壕の違いがよく分からないっす。
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塹壕の突き当たり先は但馬谷に続く崖
ここに追い詰められたら嫌だなー…。
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千貫門跡(付近)
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ここに出てきました(振り返って撮影)
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御屋敷跡
右端の説明は↑画像付近に建っている看板です。
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神社駐車場前に戻ってきました
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日頃、美濃や尾張で見かける石垣ゴツゴツと異なる、山を開拓して造成された土の城。大変面白かった!で、その土といえば鉄分の多そうな赤土。粘土質で雨が降ったらよく滑りそうです(笑)
今回は時間と天気の都合で景勝屋敷跡、柿崎屋敷跡、カメワリ清水方面、大手道方面を見学できてないので、ぜひ再訪したいです。
林泉寺に寄ろうとしたけど…
拝観料500円にびびって辞退しました…。
さて、次は高田城公園へ向かいます。続きはこちら☆
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