春日山城址登城・その1は、城下惣構え(春日山城史跡広場、春日山城跡ものがたり館)→神社下駐車場から本丸跡まで。
今回のGPSログ(ルート)はこちら↓
(↑春日山神社下駐車場スタート/ゴールです。惣構えから神社下駐車場までは1.5~6kmです)
まずは春日山城跡ものがたり館(イントロデュース施設)で予習
内部の様子
屏風は、川中島の合戦を描いたもの。右の糸、織物、着物は名産品・越後上布とそれを用いて作られた着物など。
その他には、色々威腹巻のパネル展示などがありました。
越後上布は青苧(カラムシ)と呼ばれるイラクサ科の茎から採取した繊維で織った布だそうです。
苧は広義で麻の仲間なのでパリッとした生地なのかしらねー。みのかも文化の森 市民ミュージアムで見た「越後アンギン」も越後上布の仲間かな。
山城に登る前に城下の惣構えも見学しましょう。
土塁の外には堀(監物堀)が張り巡らされています。その距離1.2㎞、ここから埋蔵文化財センターまで続いています。また、土塁には塀などが建てられていたと推測されています。
初夏にはお堀にカキツバタが咲くそうな。優雅でしょうねー。
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土塁横から。2m弱くらいの高さがあります。ありがたい説明はこちら。
天正6~7(1578~9)年の御館(おたて)の乱の後に築かれたものではないかと推測されているそうです。
御館の乱ってのは、謙信死後、景虎(北条氏康の子)と景勝の間で起こった後継者争いです。どちらも養子だったこの戦は景勝(長尾政景の子)が勝利しました。
土塁の上から
春日山城跡ものがたり館から車で5分、春日山神社に到着。ちなみにお城跡までの道中、新潟県道180号線沿いには、奈良の春日大社を勧請し、春日山城の名前の由来となった春日神社があります(こちらの神社ほうが春日山神社より古い)
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社号標の揮毫は東郷平八郎
日露戦争でバルチック艦隊を破った人ですね。ちなみに打電の「天気晴朗なれども波高し」は平八郎…ではなくて、彼の参謀として働いていた秋山真之の言葉です。
拝殿
11月下旬の来訪、がっつり雪対策がなされていました。ポリカ波板の囲いがない拝殿はこんな感じ。
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土産物やさん前の自販機も謙信仕様。単管バリケードも謙信(しかもカワ(・∀・)イイ!!)
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謙信像
春日山郵便局の風景印にも採用されています。
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全身を撮る場合は休憩所(地図では茶屋)まで移動。でも大した距離じゃないです。
但馬谷
立ち入り禁止ロープが張られていますが、地図を見ると途中まで破線が描かれています。以前は山道があったのかも。
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荷役を担います(土の一袋運動)
真ん中のプラケースに…
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巾着袋が入っているので、好みのものを選んで…
ビニールシートをめくり土場の土を詰めて…
運びます。これでシャベル2掬い半くらい。2~3㎏くらいかなあ。
今回は家人がいたので土の袋詰めがスムーズにできましたが一人だと若干手間取るかも。
カメワリ清水、南三之丸方面通行止め
カメワリ清水、南三之丸へ向かう場合は大手道もしくは柿崎屋敷経由でアプローチ。
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甘粕屋敷跡
御館の乱で景勝を勝利に導いた上杉四天王のひとり、甘粕景持の館跡です。はじめは謙信に、謙信死後は景勝に仕えました。
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三之丸跡
上杉景虎屋敷跡、米蔵跡などがありました。
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南側に上杉景虎屋敷跡
景虎は北条氏康(北条早雲(伊勢宗瑞)の孫)の子・三郎として天文23(1554)年、相模に生まれました。永禄12(1569)年、大叔父・北条幻庵の養子となり幻庵の娘を娶ります。が、その翌年3月、越相同盟の人質として謙信への養子入りと、謙信の姪(上杉景勝の姉)との結婚が約定。同年4月、三郎の越後入りに伴い(この時、謙信から「景虎」の名前を拝受)、幻庵の娘とは新婚数ヶ月で離縁させられます。このあたりから既に「悲劇のプリンス」の片鱗が滲んでますな…。
北側に米蔵跡
背後の盛土は土塁跡です。
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二之丸へ進みます。
道中、青苧の説明があったり…
カラムシはこれ(真ん中らへんの大葉みたいな草)かなあ?
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二之丸跡
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本丸の真下に帯状に造作され、本丸警護を担っていました。また、古絵図には「台所」との記載があり春日山城の中心だったそうです。
程なく本丸跡に到着
(1106~)
荷役終了
太ももがムチムチすぎる( ;´Д`)
「関川右岸に広がる(略)中世の景観とほとんど変わらない」ということは…
この景色を謙信や上杉家臣たちも眺めたかも知れないのね。ロマンだわ!!
(~1112)
さらに、天守、井戸、鐘楼などへ向かいます。続きはこちら☆
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