その2では、岡瀬沢永代燈の先、社宮司から駒場村高札場跡まで。
今回のGPSログはこちら↓
その1↓の続きです。
↑岡瀬沢永代塔から三ツ屋一里塚跡まで
↑三ツ屋一里塚跡から中津川インター付近まで
↑中津川インター付近から駒場村高札場跡まで(GPSエラーでログが一部おかしくなっています)
社宮司
土着の木の神様だそうです。
(1049)
広久手坂
「久手(湫)」という地名は、湿地や沼地などの泥濘を表します。このあたり、その昔はじめじめとした丘陵だったのかも。
(1054)
馬頭観音
(1055)
「是より大井」石碑
恵那市、中津川市の市境です。
(1056)
茄子川焼き 看板
案内によると、天正年間に瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場で釉薬を施した陶器を焼いたことが始まり…だそうな。
瀬戸の窯には加藤姓が多くいる(陶祖として祀られているのが、加藤四郎左衛門景正)ので、これは私の想像だけれど、織田信長や古田織部が選んだ陶工たち(瀬戸六作、十作)にも縁があるかも知れませんね。
(1059)
茄子川村 案内看板
8人の入相支配地(8給)…ざっくり言うと、村が8人の領主によって分割されていたってことですな。尾張徳川家は名前の通りとして、山村氏、千村氏、馬場氏は木曽衆という名門・信州木曽氏の流れを汲む氏族です。
岐阜県民の郷土愛の薄さは、国内が分地されすぎていたことも要因の一つじゃなかろうか…と思う今日この頃。
(1109)
秋葉山常夜灯
遠州秋葉道追分です。岩村を通り、浜松市の秋葉山本宮と結ばれています。
(1111)
茄子川小休所 篠原家
加賀前田藩家臣篠原一考の子・弥右衛門が移り住んだことがはじめとされています。篠原家はその後、茄子川村の村役人、尾州庄屋などを勤め、和宮や明治天皇も道中、こちらで休まれました。
(1112)
尾州白木改番所跡
白木改番所、そこら中にあります。こうしてみると、木曽の山々はその殆どが徳川の所有だったのねー。
(1116)
茄子川村高札場跡
(1119)
坂本観音堂
(1122)
坂本立場跡
(1127)
石の祠で守られてる。素敵ー
(1130)
千旦林地下道をくぐります。
そういえば、リニアの岐阜駅って千旦林地区にできるのよね。今後、発展しそうねー。
(1131)
三ツ家一里塚跡
木の陰で、ちと分かり辛い石碑です。江戸日本橋より86里目。
(1133)
将監塚
美濃代官・岡田将監のお墓です。名古屋名物、きしめんの由来が雉子麵だとか初めて知りました。勉強になった!それにしても、お雑煮にしろ、きしめんにしろ、名古屋の醤油味の食べ物はシンプルなのが多い気がします。
(1136)
中平神明神社
街道から70mくらい山に入ったところにあります。行って戻ったら、ジーンズがセンダン草(ひっつき虫)まみれになった(笑)
(1143)
弘法堂
(1149)
同じところに馬頭観音の祀られています。
(1150)
恵那山!
(1153)
千旦林村高札場跡
(1201)
坂本八幡宮
右上:参道を中央線がブチ抜いてる…!
右下:本殿
(1203~10)
六地蔵石憧
(1220)
標識に沿って進むよ。
消滅してる箇所もあるのねー。
(1228)
讃岐嵐供養碑
讃岐嵐は木曽家の有力武将のひとりで、千旦林八幡宮の再建に尽力したそうです。
(1233)
小石塚立場跡
(1234)
石仏群
(1242)
上宿休憩所
トイレもあるよ。ありがたいねー。
(1247)
休憩所の対面に、上宿一里塚跡と明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟
江戸日本橋から85里目です。
(1253)
石仏群
(1254)
…の一角に、「是より苗木道」と刻まれた双頭一身道祖神
(1254)
中山道、苗木道追分
苗木城下を通り、飛騨街道に通じる脇往還です。傍らの案内看板によると、地理地形が変化し現在では全線踏破は不可能とのこと…。
(1255)
東山道坂本駅 案内看板
(1256)
小手の木坂 石碑と看板
(1256)
河川工事中
秋冬に河川工事が多いのは、水位が下がるから。寒くて大変だけどね…。
(1258)
東山道 道標
(1258)
駒場村高札場跡
壁に貼り付けてあるタイプは初めてみました。
(1300)
中津川宿本陣はもうすぐそこ。
その3へ続きます。続きはこちら☆
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