今回のGPSログはこちら↓
当日のデータ:
所要時間と距離は 1時間1分、累積距離3.9km、累積標高101m
天気 曇時々雨
気温 26℃
うぬまの森(マップコード70249853*77))駐車場スタート/ゴール
うぬまの森駐車場からスタートです。
(11:17)
合戸(かっこ)池の横を進みます。
(11:20)
石碑・石仏群
(11:21)
故梅田𠮷三郎之碑(柵の向こう側の石碑です)
梅田𠮷三郎さんは、中山道北側の谷に新田開発を行った方です。
手前のお地蔵さんは、文化11(1814)年に建てられました。
(11:23)
(振り返って撮影)
東(江戸側)から来ると、ちょっと分かりにくい分岐。赤い矢印が通って来た道です。
(11:24)
団地の際を進みます。結構な勾配です。
(11:26)
中山道鵜沼宿遠望。藤田屋酒店の角のところです。
各務原市内の中山道案内は本当に丁寧で分かりやすかったです。有難いわね。
(11:29)
愛宕山
二ノ宮神社、脇本陣
神社、脇本陣ともに櫓のそばにあるのだけれど…よう分からんですな。
伊木山
キューピーの胸から腹あたりがガタガタになってる。
赤坂神社
(11:35)
立派な神社ねー
カッコいい灯篭!
(11:37)
赤坂神社となり、公民館(鵜沼東町ふれあいセンター)があるところが高札場跡です。
(復元された高札場は、西へ300mくらい進んだ坂祝バイパス交差点に設置されています)
(11:38)
赤坂の地蔵堂と東の見附跡
(11:39)
見附ってのは、宿場入口と街道の境界に、宿場内の防衛のために置かれた施設です。警備施設なので見張りの番兵がつめていました。
つまり、東西の見附の内側が宿場で見附の外が街道です。
光背の部分に、「左ハ江戸併せんこうし(善光寺)道」、「右ハ在所みち」と刻まれています。
名古屋弁で、実家のことを「在所」と言ったりしますが、この「在所みち」は、人が多く住んでいる場所に通じる道、今でいう生活道路に近い意味合いだと思います。
霊雲山見桃院
臨済宗妙心寺派のお寺さんです。
(11:42)
承久の乱の合戦供養塔が集められたお寺さんが、こんな感じの名前だったような…と調べてみたら、見桃院じゃなくて、桃春院(しかも鵜沼じゃなくて前渡)だったでござる(ちなみに現在、供養塔は佛願院(前渡不動尊)に安置されています)
往路のゴール、「これよりうとう峠 ここは中山道鵜沼宿」道標石に到着
(11:44)
うぬまの森駐車場へ戻ります。
(11:49)
団地を進み…
(11:54)
丁字路つきあたりが、往路で鵜沼宿を遠望した藤田屋酒店の角です(8枚目の画像)
(12:04)
往路同様、合戸池の横を通り…
(12:12)
はい、おつかれー。
無事、うぬまの森駐車場に戻ってきました。
(12:15)
中山道はこの先、太田宿(江戸方面)へ向けてうとう峠を通ります。うとう峠~原火谷林道を歩いた時の様子はこちら↓
中山道を歩こう!3回目、太田宿~鵜沼宿はこんな感じ。
次回は、太田宿~鵜沼宿(2里(約7.9km))のうち、往路は街道途中の坂祝町・勝山西交差点から岩屋観音経由で原火谷林道入口、復路・坂祝町宝積寺まで歩きます。
おまけ画像
現在立ち入り禁止の鵜沼城址
永享年間(1429年 - 1440年)に、大沢利治によって築城されました。永禄年間、織田信長の美濃攻めの一環で、何代目かの城主大沢治郎左衛門は木下藤吉郎(豊臣秀吉)の調略を受け入れ逃亡、無人の鵜沼城は犬山城主を務めていた池田恒興に与えられます。その後、池田恒興の国替えに伴い中川定成が犬山、鵜沼両城の主として入城します。
時は流れて、小牧長久手の合戦。信雄側の中川定成は伊勢国北部へ出陣します。が、その隙に池田恒興によって再度、犬山城とともに攻め取られます(しかし、全くノーガードだったわけでなく、中川定成の叔父で龍泉院住職の中川清蔵主が留守を守っていました)
そして、そんな池田恒興も合戦途中の長久手で、嫡男・元助、娘婿の鬼武蔵(森長可)と共に討ち死。鵜沼城は廃城になり、犬山城は皆さんご存じのように、織田信雄の手に戻り、石川貞清、小笠原吉次、平岩親吉と城主が転々とするも、徳川の世で、成瀬家で落ち着き、つい最近まで成瀬さんのお城でした。
この記事へのコメント