(県下で1番大きい前方後円墳は名古屋市熱田区の断夫山古墳です)
青塚古墳へ訪れるのは30年ぶりです。その時は、これほど立派に整備されておらず(ガイダンス施設もなかった)草ボーボー、墳丘も登り放題でした(笑)
後円墳丘には 三等三角点「学伝」(楽田じゃないのね!)があります。
立ち入り禁止になった今、タッチできる日は来ない…。いや、草刈りボランティアに参加すれば可能性があるかも?!
古墳の周りには、朱色の壺が等間隔に配置されています。
今は草紅葉色の墳丘ですが、緑が濃い時期は朱と翠のコントラストが美しいことでしょう。
重要事項のみ簡素に書いてある、とっても賢い案内説明板
上の説明によると、4世紀中ごろ(古墳時代前期)に造られたそうで、低い基壇の上に後円部が3段、前方部が2段に築かれ、段毎の平坦部には赤い埴輪が並んでいました。また古墳全体は河原石(葺石)で覆われていたそうです。
ガイダンス施設「まほらの館」
大和し麗しい、素敵なネーミングです。
企画展「地域に眠る文化遺産in犬山西」が行われていました。
出土品
青山古墳だけでなく、沢山の古墳群があったのようです。
そういえば、昨年に継鹿尾山に登ったとき、尾根伝いに大平山古墳があったのを思い出しました。
青塚古墳展示室
手作り感満載で素敵!
土岐石の菅玉と勾玉(勾玉は土岐石じゃないかも)
土岐石は土岐川で採取される
ちなみに、この土岐川、岐阜県内は土岐川、愛知県に入ると玉野川(玉野渓谷沿い)、名古屋まで来ると庄内川(枇杷島あたりでは枇杷島川とも)…と名前がとんどん変わる鰤みたいな川です。
小牧長久手の合戦では、豊臣方の武将・森長可(森蘭丸の兄ちゃん)が青塚古墳に砦を築きました。
豊山町にも青塚古墳とよばれる古墳があり、砦だったのでは?という説があるのですが合戦布陣図を地図で見ると、豊山町の青塚古墳が砦だったというのは、ちょっと厳しいかなーと思います。まあ「バックを取った!」的な位置ではあるけど(笑)ただ、豊山町だと森長可と池田恒興が敗走した物狂い峠(尾張本宮山麓)がちと遠いのよね。
ちなみに、こちらの青塚古墳、標高43mのところに12mの墳丘でMAX55mくらいです。同じ豊臣方・稲葉一鉄が守った岩崎山砦(青塚古墳からちょっと南)も58m。大体同じくらの高さです。
出土した銅鏡(レプリカ)
愛知に残る古墳大きさ比べ
こちらも手作り感満載で最高です。しかも、めっちゃ分かりやすいし!
それにしても器用だわー。
ガイダンス施設から神社が見えていたので行ってみましょう。
お稲荷さんでした。
王畦半…畦畔(あぜ道)の鎮守さまかしら。川が近いので、昔は緩い土地だったのかも。
隣には神明社
大正天皇即位祈念の石碑が建っていました。
神楽殿とその奥に本殿
静かで清々しい空間でした。
てくてく歩いて、合瀬川(木津用水)まで来ました。合瀬川に沿って4㎞くらい南に進むと小牧山の横、虎口跡(山北橋)に出ます。
画像右の神社(こちらも神明社)まで行ってみようと思ったのですが、この日は恐ろしく風が強くて断念。
巾下川の土手沿いに戻ります。土手からみた古墳。
青塚古墳と周辺はこんな感じ。所要時間は散歩含めて1時間弱くらいです(ログ取るほど歩いてない(笑))
さて次はどこに行こうかな。
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