清洲山王宮 日吉神社
日吉神社に到着。街道沿いの社号標から東へ300mくらい行ったところにあります。社号標の脇に「信長攻路」の看板も建っています。木瓜道の立ち寄りスポットに登録されてるようです。
子産石
女子がこの石に触ると、たちどころに懐妊するらしい。なか(大政所、秀吉のお母さん)も、この石に触れて子宝に恵まれ、生まれた子に「日吉丸(秀吉の幼名)」と名付けたとか。霊験あらたかですな。
はきだしまいり、清祓所
棄て去りたい念をお皿に吐き出して、ここで割り捨ててスッキリ。お皿は1枚300円。
拝殿
狛犬ならぬ狛猿(申)!烏帽子かぶって正装してます。
絵馬にもお申さん。
摂社の金毘羅さん
こちらも摂社、御嶽神社
神楽殿
摂末社(枝社)
神武天皇など、22柱お祀りされています。
興化山 長光寺
稲沢市へ移動しました。運よく稲沢市観光課(?)の方、稲沢市ふるさとガイドの会の方が取材に来ており、ご住職とお庫裡さんが在寺しておられたので六角堂の内部の拝観とガイドさんの詳しい説明を伺うことができました。ありがたかったです。興化山 長光寺に到着。山門前に移設された四ツ家追分道標が建っています。なんでも、ダンプカーに接触され破損したため当地へ移動したとか。
道標アップ。スチール枠でがっちり守られています。正面「右ぎふ道」、左面「左京都道」と彫字。
ネット情報だと、右面には「文政二年己卯十二月立」と彫られているそうです。文政2年は西暦の1819年、11代徳川家斉の治世。日本沿岸に近づく異国船が増え、いよいよ鎖国の維持が厳しくなってくるころですね。
山門
左右には立派な仁王像が立ってらっしゃいます(ガラスが反射しちゃって見えてない…)
臥松水
信長が清洲のお城にいた頃から愛飲していた井戸水だそうな。岐阜城に移ってからも取り寄せて茶の湯に使ったとか。
ちなみに井戸はまだ生きています(観光課の方が簾を捲って下さりました)
地蔵堂(六角堂)
建物の形状から六角堂と呼ばれています。永正7(1510)年、京都の匠・武田の番匠によって建てられました。
お堂内部
真ん中は重文に指定されている鋳鉄地蔵菩薩蔵。文暦2(1235)年、藤原氏尾張俊光の所願により鎌倉の職人によって造顕されました。鋳鉄は技術的に難しく、とても貴重なのだそうです。脇侍は鋳銅です。
禍難の前に全身から汗を噴き出し世に知らせることから、汗かき地蔵と呼ばれているそうです。稲沢のむかしばなし によると、最近では伊勢湾台風(昭和34(1959)年)の前に汗をかいたそうなので、お地蔵さまの汗は気圧や温度の変化による結露かな。ちなみに、終戦の年(昭和20(1945)年)も大きな台風が2つありました。
六角堂正面の鰐口
表に、永和2(1376)年、近江国田付大寺のため鋳造したとの銘が刻まれており、裏面には天正11(1583)年、埴原植安が六角堂に寄進したとの追銘が刻まれています。埴原植安は六角堂で昼寝をしていたところを信長に蹴起こされ家臣となり、信長の近江攻略の際にこちらの鰐口を持ち帰ったそうです。
本堂
応保元(1161)年、平頼盛の寄進で創建されたと伝えられています。延元3(1338)年、足利尊氏が山門、多宝塔、観音堂。続いて、但馬左衛門佐広景が客殿、膳所などを建立、法相宗に属します。その後、朝倉下野守(経景?)が護摩堂を建立、真言宗を兼ねていましたが明応8(1499)年、臨済宗に改宗しました。慶長6(1601)年には清洲城主・松平忠吉から寺領の寄進を受け、以後代々尾張藩より庇護されました。現在の本堂は平成20(2008)年に落慶したそうです。
街道の様子
尾張大國霊神社(国府宮)
閉門ギリギリ滑り込みで尾張大國霊神社(国府宮)も参詣。めっちゃ立派な神社!!楼門
室町初期の建立。その後、正保3(1646)年に大きな修理が行われました。
拝殿
尾張人祖先の開拓の神・尾張大國霊神がお祀りされています。尾張国府の創始と同じくして創建、尾張国の総社とされました。
拝殿、横から
菊花展が行われていました。
儺追殿
はだか祭りで神男が三日三晩、身を清めるため過ごす場所です。神社HPの「はだか男としての参加心得」がじわじわくる(笑)
(神聖なお祭りなので笑っちゃいけないんだろうけど笑えます…)
摂社
司宮神社、稲荷神社、三女社、白山社、居森社、神明社の6柱がお祀りされています。
清洲山王宮 日吉神社、興化山 長光寺、尾張大國霊神社(国府宮)を参詣(2022年11月)はこんな感じ。愛知出身なのに、今まで国府宮にお参りしたことがありませんでした。ちょっと時間が足らなかった(事前の予習もね…。反省)
さて次はどこに行こうかな。
この記事へのコメント