小口城址
広い駐車場完備!
城址は公園として整備されています。
入り口の詳細な説明看板。書いてある内容は、HPに掲載されているものとほぼ同じです。
公園なので、ちびっ子たちが集っていました。子供は元気がいいねー。
小口城(読みは「おぐち」)は尾張守護・斯波義廉に仕えていた、織田広近によって長禄3(1459)年に築城された平城です。
文明元(1469)年、新に築城した木ノ下城(現・犬山市愛宕神社。犬山城の前身)に移るまでをここで過ごしました。
城跡は資料館として整備されています。写真OKで料金無料、ありがたいねー。
コロナ対策で開館は、土日祝の10〜12時、13〜15時まで。見学は、手指の消毒と連絡先の提出が求められます。
手前の四角い箱は井戸跡
野鍛冶炉跡
資料館には、城址から出土したスラグ(鉄滓)が展示されていました。
内部展示
小口城に関わりのあった武将など。織田敏定は管領斯波氏の家臣で尾張国下四郡(清洲城が居城の清洲織田氏(織田大和守家))の守護代を務めていました。稲葉一鉄は、小牧・長久手の戦いで、秀吉に小口から西方面を任されていました。岩崎山砦に布陣しただけじゃなかったのねー。
発掘図
二重に堀を張り巡らせた四角いお城だったようです。公園裏手の小口神社に土塁が残っているそうなので、あとで行ってみましょう。
物見櫓
…はコロナ禍で閉鎖中…。
内部見学できる日が早く訪れますように。
歩ける空堀(補修中で立ち入り禁止でした…)
小口神社
公園の隣です。
鳥居をくぐると、桝形みたいに直角に曲がって拝殿があります。
拝殿
…の右に、町指定の天然記念樹・山柿
立派ですなー。
今でも結実するらしい。山柿なので渋っぽいかもだけど(よく分かんない)
山柿の奥には、山神さまなどの祠。
ここが土塁だった感じですね。祠に近づくと、裏の民家がまる見えになるので、このあたりで勘弁しとこう…。
周辺を歩いてみましょう。
妙徳寺
吉祥山妙徳寺
文明7(1475)年、織田広道は家督を次男・寛近(津田武永)に譲り隠居します。
その隠居所とされたのが、妙徳寺の前身・萬好軒です。
本堂
萬好軒は、広道の死後、織田敏定によって吉祥山妙徳寺と改められます。
鬼瓦に織田木瓜
織田家ゆかりっぽい!
よく肥えた鯉たち。大事にされてるねー。
全徳寺
さらに歩いて、福新山全徳寺
本堂
山門の前に据えられている鬼瓦には、檜扇紋が入っていました。
永仁2(1294)年に、山姥を退治した福富新蔵が「全徳坊」として創建、文明7(1476)年に、隣接する徳林寺住職によって「全徳庵」と改められ、同寺の末寺となります。その後、徳林寺とともに、兵火で焼失、慶長3(1598)年に再建されます。
さらに時代が進み、明治34(1901)年、徳林寺から分離し全徳寺となったそうです。
庫裏の鬼瓦は織田木瓜
徳林寺
大龍山徳林寺
大徳寺の西側に隣接しています。
犬山城から移築された黒門
傍らに建っていた説明によると、明治9(1876)年に新政府から払い下げられたものを23円で購入、移築されたそうです。門の形式は薬医門です。
金銭価値を測る物差しにはいろんな方法があるので、一概に「これ」とは言えませんが、三菱UFJ信託銀行のサイトによると、
明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8~9円だったといわれています。現在の初任給はおよそ20万円程度であることを考えると、1円は2万円もの価値があったとも考えられます。とのことなので、現在の価値として46万。あれっ…思ったほど高くない…。叩き売りだったのか…。
ちなみに、調べてみたら、姫路城は100円、彦根城は800円で売却予定だったという説が出てきて、そりゃ新宗教が購入するはずだわ、と思った。
文明7(1475)年、中興した織田広近によって建てられた中門
本堂
さきの全徳寺と同様、福富新蔵が退治した山姥にまつわるお寺さんです。退治した山姥が小池与八郎の妻だったことから、与八郎が供養のために建立しました。その後二代目与八郎が母の菩提を弔うため空母山徳蓮寺と命名、文明元(1469)年、織田広近によって現在の大龍山徳林寺に改名されました。
唐破風の鬼瓦に織田木瓜
弘法堂もしくは薬師堂かしら
梅が咲き始めていました
長ーい参道の先には、徳林寺と全徳寺を示す寺標が建っていました。
日が蔭ってきたので駐車場にもどります。
ぐるっと歩いて1時間強くらいです。
小口城址、小口神社、妙徳寺、全徳寺、徳林寺はこんな感じ。
次はどこに行こうかな。
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福富新蔵が退治した、山姥伝説の尾張本宮山へ登ったときの記事はこちら↓
スニーカーで行けるノーマルルートです。山頂近くに山姥青黄姫龍神の祠があります。
健脚さん&探検したい方は、ヒトツバタゴ自生地ルートをGO!(ヒトツバタゴ自生地ルートは、足元トレッキングシューズ推奨)
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